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牛坂(うしざか)

左・牛坂
右・オニヤブソテツ
  牛坂(うしざか)

 人間とはお節介な動物である。物事を知りたいと思うことが高じて、隣近所やなんの関係も 利得も無いところに首を突っ込もうとする。道ばたの草やら、虫やら、流れる水や石ころ、夜空 の星ぼしにさえ、どこから来たとか名前は何だとか、昨日はどうしていた、明日はどうするなど と、ひっきりなしに詮索する。
 牛坂は、文京区春日にある何の変哲もない坂である。江戸の名残、小石川後楽園は、地下鉄を またいだ目と鼻の先で、職場に素直に出向きたくない朝は、遠回りして牛坂を登る。右手は 北野神社(牛天神)である。寿永3(1184)年、源頼朝が東国征伐にあたり小石川の入り江に 船をもやい、波が和むのを待ったとき、牛に乗った菅原道真公が夢に現れ吉事を伝えた。覚めると 牛の形をした石があったのでそれを奉ったという。天神と坂の名の由来である。「御府内備考」には、 「このあたりは昔から入り江で、蛎殻がたくさん捨ててあったり、漁師が鮫を干したりしていたので、 蛎殻坂、鮫干坂といった」と記されている。潮見坂という別名もある。まことに生活のにおいのする 坂であったのだろう。
 坂の中途、わずかに昔を思わせる石垣がある。隙間からシダが萌えだしているのは、時を経た 石垣の常である。東京あたりではふつう、イノモトソウやチャセンシダの仲間である。ここにも イノモトソウ がすっきりした細身の羽片を遠慮がちに広げている。さらに目につくのは、大胆な 鋸歯のあるオニヤブソテツの濃緑の葉である。このシダは、葉に光沢があり見栄えが良く強靱なので、 日本庭園には欠かせない点景である。強いのも道理で、もとは海岸付近を好む潮に強い植物なのだ。
 今ぐるりを見渡しても、当然のことながら海を連想させる光景は皆無である。それでも オニヤブソテツを見るたびに、きらきらと水面がきらめく入り江の情景を思い浮かべることができる。 あまり大きな株でないところをみると、江戸の昔から居着いたものではないかもしれない。 お節介心で、由来を調べることも今の科学ではできないことでもない。
 坂も自然の風景のひとつである。牛坂を離れれば、また異なる風景があり、ビル工事の金網沿い には、入り江のずっと向こうの国からやってきた植物ばかりが目立つ。そのような風景を目にすれば、 またそれなりに感ずるところもあるけれども、心を動かされることはあまり多くない。単調すぎる のかもしれない。
 知的好奇心というのは、お節介心である。他に注意をむけ、詮索することは、人として大切に したい感覚であると思っている。自然に目を向けることは、この感覚を磨くのに最適であろう。 目に入るものが多様であるほど、思考も広がる。そのような機会を明日の世代には増やしたい。 他人との対話、他人の思慮分別を推し量ることが現代に不足していると感ずるのは、ひとえにこの お節介心の欠如だからと思うのである。

西田治文 中央大学理工学部(日本植物分類学会)