丸山工作先生の訃報に接してから半年。50歳を越えた私が研究者の人生を考える時、まず、思い浮かぶの
が丸山先生の生き方である。この場をかりて、私の思い出話を綴ることをお許しいただきたい。
先生にはじめて接したのは、私が大学生の時で、著書にあったミスプリを僭越にも指摘したところ、直ちに
「その件では冷や汗をかいています」という返信と、何かの別刷りをいただいた。見ず知らずの学生に随分
と早くかつ丁寧な応答をされる先生だというのが、私が丸山先生に抱いた第一印象だった。
先生は、子供の頃から熱心な昆虫少年であった。そのことがその後の生物学者としての人生に大いに影響した
という。筋肉生化学を目指すきっかけとなった東京大学理学部動物学科での卒業研究は、蜂の発生とミオシン
ATPアーゼ活性の変化についてであった。
丸山先生は早朝研究室に入ると直ちに実験を始めた。私が修士課程を過ごした千葉大学に昭和54年4月1日、
京都大学から赴任されたときも、翌日、ウサギをつかんで早くも実験を開始した。先生は院生に対し、研究室
で毎日11時間は働けと言った。また、江橋節郎先生の言説である「生物学者は一年のうち1日は深く考え、残り
364日は闇雲に働けばよい」という教えを力説された。日曜日、研究室に来なかったのは、週一日を教科書や
啓蒙書の執筆活動にあてるためだったという。「夢と真実」(学会出版センター)や「新インスリン物語」
(裳華房)、「生化学の夜明け」(中央公論)などに、科学者個人の生い立ちや個性が如何に研究と深く結び
ついているかが、魅力的に浮き彫りにされている。
先生は、毎朝7時には研究室にやって来た。窓から自転車姿が見えると私は緊張した。研究室に着くと、まず、
水槽の魚に餌をやり、2台の蒸留装置をセットしガラス再蒸留水を作り始めるのが日課だった。黒い旧式タイプ
ライターで雨だれタイプを打ちながら、1人で遠心分離機を回し、アクチンの重合を測る流動複屈折計を操作し
ていた。実験をしながら論文原稿をタイプし、実験終了と同時に論文も完成するという常人には考えられない
productiveな研究者だった。先生が精魂込めた研究成果は「βムアクチニン」、「コネクチン」の発見として
結実している。
生物学科の3年生向け講義を傍聴したことがある。決して流暢でない、ボツボツと語る特異な語り口。時折、
窓の外を見ながら2分間くらいの沈黙があったのが印象的だった。研究者にまつわる話が多かった。私の修士
研究では、先生が京都から持って来られた新品の大型蛍光顕微鏡をお借りして徹夜で細胞の蛍光観察をしていた。
ある日の明け方、うっかり、高価な蛍光ランプをつけっぱなしで寝入ってしまった。ひどく怒られた。「貴様は
僕がこの顕微鏡を得るためにどんなに苦労したかを知っているのか?」と。私は生意気にも「学生たる者、
教師が用意する研究機材を使う権利があり、教師たる者、その環境を提供する義務がある」と思い、不服顔を
した。それが、余計、先生の怒りを買ってしまった。後に、自分の研究室を持ったとき、院生が同様のこと
をした。私は、先生と同じ言葉を繰り返していることに気がついた。これを後日、丸山先生に話した。歴史は
繰り返すと笑い話のつもりだったのに、これがまたまた、怒りを買ってしまった。「バッカヤロー。僕はそんな
ケチな人間じゃない」。
筋肉生化学者であった丸山先生は進化系統学の重要性も深く認識していた。日本動物学会会長当時、日本の大学
から姿を消しつつある進化系統学を憂慮され、それを復活させるべく、日本学術会議や文部省に働きかけて国立
大学に進化系統学大講座の新設をうながした。その大講座が東大理学部に作られた。また、地球上にすむ全生物
のカタログ作りをめざす巨大プロジェクト「ガイアリスト21」の提案もされた。理科教育や研究行政を司る
文部省に、生物学や自然科学がわかる理科系の人材を送る必要性を痛感し、人事院に働きかけて国家公務員
第一種試験に生物学受験枠を作ることに成功した。幸い、私の研究室の院生はこの枠で経済産業省にキャリア
として入省したのだが、遺憾ながら文科省には未だ、生物系キャリアが不在である。
亡くなる2日前まで大学入試センター長職を務め、周囲に重病であることを気づかせなかった。それぞれの人間
に与えられた人生の時間に限りあることを思う時、最後まで後進に背中で示された丸山工作先生の生き方は、
漆黒の海を照らす灯台のように輝いている。
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