近頃、イースター島を再訪した。物見遊山ではない。自分自身の研究に
											かかわる臨地調査のためである。 
先史時代の南太平洋、そこを舞台にくりひろげられたポリネシア人の航海活動の実態を解明すべく研究を
											進めている私なのだが、このたびは、ある特別なテーマをいだいて当地に赴いた。そのテーマとは、最近になって
											チリの考古学者が提唱した仮説を検証するため。つまり、南米のチリにあるマプチェ族のテリトリーまで古代ポリネシア人が太平洋横断航海を果たしたのではないかとの仮説を自分の目と足と肌で確かめるためであった。その目的でイースター島、それにチリのチロエ島を訪れたような次第である。 
イースター島は以前にも訪れた。そのときは南半球の冬場であった。いちばん近い島からでも2千キロ、
											チリの沿岸部までは4千キロ弱、南極からは約6千キロの絶海に浮かぶ、このポリネシアの最果ての島には
											風が吹き荒れていた。日本の宮古島や小豆島のサイズだから、風は島じゅうを吹き抜ける。それに岩だらけ、
											樹木が少々という風情で、そこに波濤が押し寄せるから、およそ荒ぶれた寒島の趣であった。でも今回は
											夏場(2月)、南海の陽射しがまぶしく、前回との対照にいたく驚いた。 
 モアイの巨人石像で有名なイースター島は、またの名をラパヌイという。ポリネシア語でラパ(Rapa)とは
											「石の斧」、そしてヌイ(Nui)は「大きな」という意味である。つまり「大きな石斧」の形をした島なのだ。さらに、
											この島で集められた口碑伝承には、「このあたりには昔、大きな陸地があり、それが沈没したのちに残った島」
											ということで、「昔々は大地のへそ(Te Pito Te Henua)と呼ばれていた」ともある。 
 たしかに19世紀の頃には、イースター島などに残る謎の巨石文化は、はるか昔に沈没したパシフィス大陸、
											あるいはムー大陸で栄えた古代文明の名残りであるとする英国人ブラウンによる珍説があった。でも、そんな
											大陸が太平洋にかつてあったとしても、それは人類が生まれるより遙かにはるかに昔のこと、というのが現在の
											科学の常識だ。 
 たしかにラパヌイは不思議な島である。ことに大陸人間には、その感が強かろう。こんな孤島にも往古から
											人間の暮らしがあった。それに人口も少なくなかった。ただ頭の中だけで合理的に物事を考えようとする
											ヨーロッパ人にとっては、いつ、どこから、どうやって、島人の祖先がやって来たのか、想像するのさえ困難だった
											にちがいない。 
 でも21世紀の今はちがう。人類学方面での各種の研究が進み、ラパヌイの人間史や自然史にかかわる
											事物や現象は、いずれも謎ではなくなりつつある。 
 紀元8百年の頃に西の島々からやって来たポリネシア人が住み始めたこと、彼らは太陽と星と波と風と
											渡り鳥を頼りに大型カヌーで航海してきたこと、モアイ像造りのアイデアを携えてきたこと、ニワトリや園芸植物
											なども運んできたこと、人口が増え島人たちの確執が激しくなったこと、かつてあった樹木が切り倒されたこと、
											サツマイモが主食であったこと、そのサツマイモだけは南米方面から持ちこまれたことなどが解明された。 
 そこにある自然の現実のなかで考え、なによりも現地調査を大切にするのが人類学であり、何十人も
											の人類学者の体験と感性が積分されたことによる研究成果なのである。ラパヌイのような島までも発見、
											植民、開拓したという先史ポリネシア人の大偉業が、ようやく人間の歴史のはざまに位置づけられるように
											なってきたわけだ。 
 ラパヌイの西岸にあるタハイという石壇は雄大で、そこに立つモアイ像は夕陽をバックに神々しいのだが、
											水平線の雲がいまいましい。上空には上の弓張り月。夕暮れ時になると、そこらじゅうカメラびとの群れ。
											この自然史の聖地である辺境の島にも観光客が押しよせる時代となった。 
 まさにイースター島にも「月に叢雲(むらくも)、花に風」なりき。 
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