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輪島塗の蒔絵筆

輪島塗の蒔絵筆

 伝統工芸輪島塗にはネズミの毛で作られた蒔絵筆が欠かせない.蒔絵筆は通常,ネコかタヌキの毛で作られ, 中国から輸入されているが,しだれ柳のような精巧な曲線などを描くときには物足りないという.そこで1本 2~3万円する「毛の長い琵琶湖産のクマネズミ」が珍重されてきた.このネズミは古来,琵琶湖周辺のアシ原で 集められてきたものであるが,近年は捕れなくなってしまった.河川工事やほかの動物に追われて姿を消したものと 考えられている.そこで,北海道から奄美大島まで,日本各地のネズミや東南アジアなど海外のネズミを取り寄せて 筆を試作し,あるいはナイロン製の筆を試してみたが,うまく行かない.これを知った経済産業省は,日本の伝統 工芸を守るために代替品開発などの調査研究に乗り出す予定を組んだそうである.
 さて, このネズミはクマネズミであると関係者のあいだで信じられてきたが,これに疑問を抱いた新聞記者の 依頼で,筆と,毛の採取に用いる毛皮とを調べた.その結果,クマネズミではなくドブネズミであることがわかった. 実は,筆を見ただけでは,クマネズミかドブネズミのものであるということは推定できても,そのどちらであるか 区別がつかなかった.毛皮を見たところ,体長が30cmほどあり,耳介は小さく腹面は灰白色であった.クマネズミ ならば体長は一般に20cm以下であるし,耳介は大きく,腹面には黄褐色部分がある.したがってドブネズミと判定 されたのである.四肢や尾の色や形態も同定のよい指標になるが,これらは切除されていて観察できなかった. ドブネズミは外来種であるが,日本への移入歴は古く,縄文遺跡からも化石が発見されているのであるから,伝統工芸 に使われていても矛盾はない.ドブネズミならば都会の植え込みや水路周辺などでごく普通に見られる.それが不潔 だというのであれば実験動物のラットでもよいはずである.
 筆は背中の毛から作られ,筆先は15~20mmの長さを持つ.水毛と呼ばれる先の細い毛だけが選ばれるので, 1本の筆を作るのに少なくとも毛皮5枚が必要だという.この毛はなぜクマネズミでなく,ドブネズミのもので なければいけないのであろう.ドブネズミの「水毛」がクマネズミのものよりも長いのかどうか,私はまだ確認 していない.巻き絵筆に適している理由として,毛の表面構造や腰の強さなどが関係していないであろうか.これは 今後の研究課題である.

矢部辰男(元神奈川県衛生研究所,日本衛生動物学会)