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「人種」は虚構か

●ブルーメンバッハがヨーロッパ人の特徴を理想的に備えているとしてコーカサス型の代表に選んだ グルジア人女性の頭骨(左)と、モンゴル型の代表に選んだ北アジア人の頭骨(右)
「人種」は虚構か

 人種というのは、アフリカで誕生した人類が進化の過程で地球上の各地に分布をひろげていったとき、 地域集団がそれぞれの自然環境に適応し、長期にわたってある程度の隔離を経験したために、身体形質に地理的な 変異を生じるに至ったものである。人種形成の要因には、自然選択(メラニンの量や体形など)と遺伝的 浮動(小集団における偶然による非適応形質の頻度変化)が挙げられるが、これらに加えて、ダーウィンも主張したように 性選択(選択結婚による外見上の人種差の強化)も作用したことが考えられる。
 人種分化は、人類が小集団で狩猟採集生活を送っていた旧石器時代を通じて進行したと思われるが、分化が 生殖隔離(種分化)に至るまえに、新石器時代にはいって農耕牧畜による人口増加が各地で始まったため、集団の拡張や 移住による接触・交流がさかんになり、人種は分化から一転して融合に向かうようになった。その結果、すべての現生人類は ただ一つの種に属しており、地方型である諸人種のあいだには地理的にも形質的にも明確な境界線がまったくないという 状況になっている。現在みられる人種差は、いわば過去の分化のなごりである。
 大航海時代いらい、世界の諸民族についてさまざまな情報が集まってきていたヨーロッパでは、18世紀になって、リンネを はじめとする自然史学者たちがつぎつぎと人種の分類を試みた。中でもよく知られているのがブルーメンバッハの5型分類 であるが、これには、ヨーロッパ人を含むコーカサス型だけが人類本来の姿を純粋にたもっており、ほかの人種型は多かれ 少なかれ変質しているのだという、ある種の優劣観が含まれていた。
 人種間に遺伝的な優劣の差があるという考え(人種主義)はその後ながく続き、20世紀に入っても、優秀なコーカソイドの 純粋性を劣等人種による汚染から守るべきだというような優生思想を研究者が支持したこともあったが、第二次世界大戦後は ユネスコの人種声明をめぐる論議を契機に、優劣観からの脱却が進んできている。かつて欧米各国の人類学者が競って 提唱していた詳細な人種分類は今では影をひそめ、研究者の関心は人種の分類よりも個々の形質の地理的分布や 適応的意義の研究、あるいは個別の地域集団間の歴史的関係の復元などに移ってきている。しかしその一方で、社会の 一部には依然として人種主義的な考え方が根強く生きつづけている。
 そういう中にあって近年では、「人種は社会的な概念であって、生物学的には実体がない」という意見が分子人類学の 研究者などのあいだで強くなっている。その根拠は、遺伝子のレヴェルでは集団内での個体差にくらべて地理的集団間の 差がひじょうに小さく、遺伝子頻度のデータでも人種は厳密に定義することも客観的に分類することもできない、ということである。 この意見に、不当な人種差別に対する抗議と、伝統的人類学に対する傾聴すべき批判がこめられていることは確かである。 しかし人種とはもともと遺伝子頻度ではまだ表わすことのできない多因子性の適応形質や外見上の形態にかかわる現象で あること、また厳密な定義や分類のむつかしい生物学上の概念は人種以外にも少なくないことを考えると、人種をたんなる 虚構だと切り捨てることには同意をためらわざるをえない。
 夫婦のうち少なくとも一方が黒人であればその子孫はすべて黒人であるというような、アメリカ合衆国での 'race' が社会的な 概念であることに異論をはさむつもりはない。しかし自然史的な人種の概念までも実体がないとするのは行きすぎのように 思われる。ここで人類学がはたすべき役割は、人種を度外視することではなく、むしろ「人種とはなにか」についていっそう洞察を ふかめ、その知見の周知につとめることなのではなかろうか。

山口 敏 (国立科学博物館名誉研究員、日本人類学会)